1/8のDNA
先月、母方の祖母が誕生日を迎えました。
1912年、明治45年生まれ。今年101歳になりました。
本人はいたって元気。いまだに全く薬を飲んでいません。最近、何か飲みたくなり、ビタミン剤を飲みはじめたそうです。
ちょっとウイキペディアで明治45年を調べてみると、
4月15日 タイタニック号が沈没
7月30日 明治から大正に改元
タイタニック号が沈没した時にはすでに生まれていました、、、。
夏目漱石と同じ時代の空気を吸っていました、、、。
もちろん本人は、孫文が中華民国を設立しようが、タイタニック号が沈もうが関係なかったと思います。
しかし、関東大震災1923年には11歳。太平洋戦争終結時1945年には、すでに30歳を超えていたと考えると、どのような人生を送ってきたのかとても興味が湧いてきます。
元々、祖母は新潟県の出身。結婚して戦争が激しくなる前は夫や夫の兄弟達と、今の東京・原宿で豆腐屋を営んでいたそうです。
その後、夫と共に神奈川県伊勢原市に疎開し、疎開先で豆腐屋をはじめ、終戦後もその地に残りました。
私も子供のころ、夏休みなどによく泊まりにいきましたが、自宅兼豆腐屋で自宅の敷地の中では豚も飼っていました。
母が言うには、豆腐を作った時にでるオカラなどを捨てるのがもったいないので、豚を飼って、オカラを餌にして育てていたそうです。
子供の頃、遊びに行って、イタズラをすると母の兄から「豚小屋に放り込むぞー」と脅かされると、本当にビビったものでした。
豆腐屋は朝が早いです。毎日3時には起きていました。お店が開くころには、仕事がひと段落するので、祖母は9時から5時まで近くの農業協同組合で働いてもいたそうです。1月1日以外は毎日、豆腐を作り、豚を育て、農協にも勤める。
今では、考えられない働きっぷりです。
でも、私の記憶にある祖母はとにかくいつも「ニコニコ笑顔」です。
これも、母が言うには、祖母は「人には可愛がってもらわないといけないんだよ」が口癖だったといいます。
今は、老人ホームに入っていますが、先日の誕生日に会った際にも、母に「こういう所に入ったら、みんなに可愛がってもらわないといけないんだ」と笑いながら言っていて、これは、まだまだ長生きするなと確信したそうです。
祖母が疎開した時、親類に野菜を作りたいので土地を貸してもらえないかお願いに行ったことがあったそうです。その時、その親戚は「おまえに貸す土地はないよ。おまえのおでこにでも野菜を作りな」と追い返されたことがあったと言います。もちろん、当時は日本人全員が大変な苦労をしていたと思いますが、祖母は苦労をしていく中で「みんなに可愛がってもらう」大切さを感じていったように私は勝手に解釈しています。
今日で震災から1年がたちましたが、私自身、変わっていないと思う反面、やはり、何か変わったかなと思う事もあります。
だからこそ、自分ではどのようにも対処できない事に、笑って対応してきた祖母を本当に尊敬しています。4CG。
1/8のDNAが入っているハズの私。
母から整理していたら、昔の写真がでてきた!
ということで今回掲載。
9months:http://www.9months.jp